人はいつか亡くなる・・・       でも、その時人の中で記憶としてどれだけ残るか?    そして、どれだけの人にお見送りされるか・・・

皆様お疲れ様です。

今日はまた少し違う話になってくるかもしれませんが、本日の話題を書かせてもらいたいと思います。

★「わが巨人軍は永久に不滅です!!」

野球が好きで、この言葉を聞いたことがない方はいないのではないのかなーと思います。

そうです!!この言葉は本日亡くなられた、長嶋茂雄さんの引退時の言葉です。

長嶋茂雄さんの経歴

ここで簡単ですが、長嶋茂雄さんの経歴を紹介させてもらいたいと思います。

・1936年(昭和11年)、2月20日、千葉県の佐倉市臼井に生まれています。

この名前だけでも少しエピソードがあるのですが、出生時の戸籍上の表記は「長嶋」で、プロ入り前はそれに従って「長嶋」と表記するメディアと当用漢字に置き換えて「長島」と表記するメディアが混在していたみたいです。昔の日本を感じますよね (笑)

しかし、1958年のプロ入りの際に記者クラブと本人の合意により、報道の際は表記の簡単な「長島」で統一することに決まったといわれています。この逸話からもいえるのは、長嶋さんはそうゆうところも野球、メディアのことを考えてしていたのかなーと、僕ながらに思います。サインも入団当初は、「長嶋」と書いていたのを、現役中は一貫して「長島」と書くようにしたといわれています。

幼少時代

幼少時代は東急フライヤーズのでプレーする大下弘さんや大阪タイガースの藤村冨美男さんのプレーを見て野球選手を志したといわれています。藤村さんのあこがれから、当時の関東在住者では珍しく、阪神ファンだったといわれています。

小学4年生から兄の影響で野球を始めたそうですが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と硬い布でボールを作ってもらっていたといわれています。(今の時代では考えられないことですね)

また、グラブも母親の手縫いのもので初めて握ったバットは青田家を割った手製のものであったといわれています。小学生の時代は兄の所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団して、兄の下遊撃手として育てられたといわれています。

中学時代

中学は、現佐倉市立佐倉中学校に入学し、野球部に入団したといわれています。

中学時代は、3年間同じ担任の先生で卒業時にはタンスをプレゼントされたほど生徒から慕われていたといわれていましたが、一人の生徒が選手のプロマイドを持ってきたことが発端となって激怒したことがあるといわれています。(この頃からなんかミスターを感じさせますね(笑))わかる、この頃の男子生徒の将来の夢のほとんどが、プロ野球選手とプロ野球の人気がわかるところがあります。そして、もちろん長嶋さんもプロ野球選手が夢で、そのころは担任の先生もこんなに大スターになるとは思っていなかったといっています。

高校時代

1951年4月、県内トップの神学校で甲子園出場経験もある千葉県立千葉高等学校の入学も考えていたそうですが、地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校(現:千葉県立佐倉高等学校)に進学しています。

2年生から4番打者を担っています。高校時代はほぼ無名でしたが、高校3年夏に南関東大会に出場を果たしています。その大会でもともとは遊撃手を守っていた長嶋さんですが、試合前に三塁手が負傷していたということもあり、三塁手として出場しています。三塁手として出場した理由の一つとして、遊撃手を守っているときに度重なるエラーをしていたことが、コンバートのきっかけであり、その後は三塁手が定着となっています。その、コンバートされた試合で高校公立試合で、自身唯一の本塁打を放っています。あの、サードで有名であった長嶋さんですが、高校の3年生までは遊撃手を守っていたのですね!

このホームランをきっかけに、野球関係者から大いに注目を集めることになったといわれています。そして、その活躍がきっかけで、いろいろな方が動き、社会人野球、進学などオファーがあったそうですが、立教大学に進学を勧めています。先ほどのホームランも人生のターニングポイントのような気がしますが、この立教大学の進学も長嶋さんの人生のターニングポイントになったのは間違いないのかなーと思います。(実は、読売巨人軍のプロ入りのオファーもあったそうで、それを後々知らされた長嶋さんは激怒したらしいです(笑)

大学時代

1954年、立教大学に進学しています。しかし、同年6月に父親が急死しています。

大学野球では、当時の監督に目をかけてもらっており、メジャー流の練習や、監督の自宅に呼ばれての練習で「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となっています。

そのような、「特別扱い」をされていたことで、先輩が嫉妬をして、ボイコットを起こし、その環境が嫌になり、一時は中日ドラゴンズの球団事務所を訪問し、「大学を中退して、プロ野球選手になって金を稼ぎたい」と言っていたそうですが、中日に申し出を拒否されたといわれています。この出来事も、一歩間違えていたら「ミスター長嶋」は誕生していなかったなーと思います。

そのような環境下監督退任後新監督の下で、同期の杉浦忠投手、首相を務めた本屋敷内野手とともに「立教三羽鳥」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年の秋季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せたといわれています。そして、守備でも1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナインに選ばれています。1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放ち、1955年には第2回(現在19回開催されています)アジア野球選手権大会日本代表に選出もされています。

リーグ通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁。打撃に加えて、sy日や俊足も野球関係者から高い評価を受けていました。他校の早稲田大学からも、三遊間のヒットをだいぶ打っていたが、ほとんど長嶋さんに取られていたといわれ、普通の人の2倍守備範囲があったのではないかと周囲に言われていたそうです。

このような活躍を収めたのちに社会人野球に進むと思われていた、長嶋さんですが、、様々な球団が長嶋さんと接触して、南海ホークスが本命といわれていました。しかし、読売巨人が、長嶋さんの家族に接触して説き伏せる作戦に出てそれがうまくはまり、「せめて在京の球団に」というのが決め手で南海から一転し、巨人へ入団を決めたといわれています。

そして背番号の話ですが、当初川上哲治から「15」を勧められていたそうですが辞退して、前年まで千葉茂さんがつけていた「3」を選びました。「15」を辞退した理由は、おそれ多い、一桁が良かったという理由だったといわれています。川上哲治さんが「15」を勧めた理由として言われているのが「14」は沢村栄治、「16」は川上であり、長嶋さんが「15」を付けたら「14」「15」「16」と3つ連続で永久欠番になるだろうという思いからだったそうです。この頃から、川上さんは長嶋さんの才能に気が付いて、永久欠番になりうる選手というのを見抜いていたというのがすごい話ですよね(笑)

入団が決まった直後に川上さんの自宅の近くに下宿したといわれており、実際に川上さんと一緒にいることが多かったといわれています。

後に大沢さんが語ったことによると、先に南海に入団していた大学の先輩でもある大沢さんと二人きりで話をし「どうしても巨人に行きたいんです」と大沢さんに頭を下げたといわれています。そして、大沢さんは「このことがなかったら、今の長嶋茂雄はなかっただろう」と語っていたそうです。そのこともあり、その後も長嶋さんは大沢さんに頭が上がらなかったといわれています。

現役時代

1958年ルーキーイヤーのこの年、オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まる中で、開幕戦を迎えました。

4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一さんに4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身の降るしイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれています。この伝説を昔からの野球好きな方はご存じではないですか?

また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫しています。オープン戦のさなか、ある解説者が長嶋さんを褒めたたえ「金田など打ち崩して当然」といった趣旨を発言していたのを偶然耳にした金田さんは激昂、この日の当番のために特訓を重ね、方のピークがちょうど来るようにしたといわれています。

しかし、その後は長嶋さんも金田さんを打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っています。長嶋さんの最終的な対金田さん通算対戦成績は打率.313、18本塁打打っています。今の時代と全然違って、でもそれがライバル関係で、お互いの力を向上させる要因になっていたと思います(笑)

そして、入団して1年目の8月6日の対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治さんに代わり4番打者となりチームのリーグ優勝にも貢献しています。

9月19日の対広島戦では新人記録となる28号本塁打を放ちますが、一塁ベースを踏み忘れて本塁打を取り消されています(笑)ここも長嶋さんらしいですね。そして、この話は、後にも続くのですが・・・・

もし、このベースの踏み忘れがなければ、新人としても巨人の選手としても、唯一のトリプルスリーの記録を達成していました。結局最終打席成績は29本塁打、92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得しています。打率も、リーグ2位の.305で終了していますが、最多安打、盗塁もリーグ2位の活躍をし、もちろん新人王に選出されています。ほかにも、新人記録として、様々な記録を残しており、書くと大変なので割愛させてもらいます(笑)僕が、毎年新人王の獲得を見るたんび、新人王とかは一年目しか取れないタイトルで、その一年目で様々な記録を残した長嶋さんは改めてすごいなーと思っているところです(笑)

1959年

これも、野球ファン、長嶋ファンなら知っている方が多いと思いますが・・・・

6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合(対阪神戦)では、4対4で迎えた9回裏、先頭打者の長嶋さんが阪神の二番手、村山実さんからサヨナラ本塁打を放ちます。この試合を機にプロ野球人気が大学野球のそれを上回るようになったとされており、また、長嶋さんの勝負強さが日本中に知れ渡るようになりました。なお、同試合では、当時ルーキーであった、王貞治さんも本塁打を打っており、106回あったONアベック本塁打の第1号になっています。

この、同年の2年目のシーズンは首位打者を獲得しています。その後も、もちろん様々な記録を残し、1963年には打率.341、37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。そして本塁打も王さんに次ぐリーグ2位、2年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献し、2度目のセ・リーグMVPを受賞しています。そして、この年ごろから本塁打と打点は王さんと争いながらタイトルを分け合う形になってきます。

1966年とこの年も5度目となる首位打者を獲得。3度目のセ・リーグMVPを受賞し、秋には、日米野球で来日したドジャースのオマリー会長が「長嶋を譲ってほしい。2年間でいい」とまで言われていたが、当時の社主に「長嶋がいなくなると、日本の野球が10年遅れる」と断ったためメジャー移籍は実現しなかったといわれている。確かに、この話を聞くと、技術とかはどうなっていたかわからないが、野球人気は低迷し、今の時代を築けなかったのではないかと思いますね。

1971年に巨人軍13代目のキャプテンに就任。5月25日の対ヤクルト戦にて史上5人目となる2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上さんに次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代策即でした。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初めての達成者となっています。そして、この年も6度目となる首位打者を獲得しています。このシーズンオフには、翌年から選手兼コーチをすることが発表され、5度目のセ・リーグMVPを受賞しています。

1973年には、打撃成績が下降してきました。力の衰えた長嶋さんは既に4番の座を王さんに譲っていたが、9月のヤクルト戦では決定的な屈辱を受けることになります。ヤクルトは4番の王さんを5打席連続で敬遠し、すべての打席で5番の長嶋さんと勝負、しかし、結果は1安打こそ放ったものの、得点機の打席でことごとく凡打。敵将の非常采配になすすべのない自らを知るにつけ、球界の中心が長嶋さんから王さんへと変わったことに気づかされたといわれています。

10月11日の後楽園球場での阪神戦にて三塁の守備で打球を右手薬指に当て、骨折負傷し、残り試合の欠場を余儀されていました。その年の南海ホークスとの日本シリーズでは一塁コーチとして出場しています。長嶋さんは10月9日、監督の川上さんと食事会の時に、この年限りの現役引退を示唆されそのまま監督になるように勧告されています。しかし、長嶋さんは現役続行を強く訴えたため、翌1974年も川上さんが監督を務め、長嶋さんは現役を続行する形になったといわれています。

現役引退・・・・

1947年オールスター出場後、改めて監督の川上と球団に引退の意思を伝え、当初球団は正式発表を11月24日のファン感謝デーを予定していたが、自身が「ファンに直接感謝の言葉を捧げたい、優勝できない場合最終戦終了直後に」と希望し、晩節を汚さぬよう新聞各紙の運動記者部長に箝口令を敷いたそうです。

10月12日、中日ドラゴンズのリーグ優勝が決定し、神宮球場にヤクルトと試合中であった巨人のV10が完全消滅しました。ここまでがよく言われるV9を成し遂げていた時ですね

試合後は、長嶋さんは監督の川上とともに陣牛球場にて記者会見し、「今年はプレーしていて肉体的な衰えを強く感じることがありました」「できることならば、明日(13日)のペナントレース最終ゲームにおいて、ファンの皆様の前でひとつ“引退”ということを皆さんにお話しして、そしてお別れの言葉を述べさせてもらいたい。そういう心境でございます」と語り、引退を表明しています

引退のセレモニーを実施する予定だった翌13日の中日とのダブルヘッダーは降雨のため翌14日に順延となった。14日、長嶋さんは後楽園球場での中日とのダブルヘッダーにて、第1試合は3番・三塁手で出場しています。一方、対戦相手の中日はこの日、名古屋市内での優勝祝賀パレードに参加するため監督の与那嶺要さん、星野仙一さん、高木守道さんら主力選手は名古屋に留まり試合への欠場を余儀なくされたため、控えと若手主体のオーダーで臨んでいます。長嶋さんは4回裏の第2打席にて、村上さんから現役最後の本塁打となる15号2ランを打っています。またこの試合で、4番に座った王も7回裏に49号3ランを打ち、通算106回目のONアベック本塁打を記録しています。

第1試合終了後、長嶋さんは自身の強い希望で球場のファンに直接挨拶をするため、一塁側ベンチを出てライトの外野方向へ歩き出しました。長嶋は歩きはじめると次第に嗚咽し、涙ながらにスタンドのファンに向かって手を振りながら、外野席のフェンスに沿って外野席を一周しています。この長嶋による場内一周は、球団が計画した引退セレモニーのプログラムには入っていませんですた。しかし「外野席にもお別れと感謝のあいさつをしたい」という長嶋さんが、球場内の混乱を懸念する球団の制止を振り切って、突然の場内一周という行動に出たのでした。

続く第2試合は、4番・三塁で出場。「4番サード長嶋」がアナウンスされると後楽園球場は大歓声に包まれました。監督の川上はこの試合に捕手・森昌彦、遊撃・黒江透修を起用する「V9」オーダーで臨んでいます。長嶋さんは5回裏の第2打席に中前安打を打ち、これが現役最後の安打となっています。そして8回裏一死一・三塁の場面で現役最後の打席を迎え、ショートへの併殺打となった。10対0で巨人が勝利しました。

試合後、引退セレモニーが実施され、長嶋さんはスピーチにて「我が巨人軍は永久に不滅です」と挨拶しています。試合後、球場内のサロン・ゴールデングローブにて記者会見し、現役引退の経緯について訊かれ、打球が野手の正面を突くようになって力の衰えを感じ、前年のオフに秘かに引退を決意していた、などと語っていたそうです

ここで現役時代は終わってしまうのですが、監督としても、野球人としても、様々な功績を残していると思います。

僕が、野球を始めたときは、スポーツで人気なのはもちろん野球でした。その人気であったのも長嶋さんがいたからではないかなーと思います。

2025年(令和7年)6月3日に長嶋茂雄さんはなくなられました。享年89歳とたまたまかもしれませんがこれも「野球」と年齢となっています。

本日亡くなられたと一報聞いた時からこの内容を書きたいと思っていました。現役時代を退いて、監督時代、そして余生も今後かけていけたら書きたいと思っています。そして、今回死因は肺炎となっていますが、既往歴である脳梗塞についても今後詳しく書いていきたいと思っています。是非お待ちいただけると嬉しいです。

本日も僕のこのような内容を読んでいただきありがとうございました。

皆様に今後も幸せな時間、出来事が起きますように。

それじゃあさようならー

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